大阪府堺市中区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
和泉国に属した古代集落エリアは、泉北高速鉄道開業で急成長した住宅都市
大阪府堺市中区は、2006年の大阪府堺市、政令指定都市移行にともなって誕生した堺市7区の行政区のひとつ。古代、堺市域では仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群が築造された歴史ある地域だ。その後、中世には海外交易の拠点として「自由・自治都市」を形成し、経済、文化の中心地として繁栄してきた。
大阪府・堺市中区のマンション
2018年、大阪府・堺市中区で販売された新築マンションは4戸。同年、同市内の中古マンション相場価格は1610万円~2380万円だった。
2019年1月現在、堺市中区の人口は、同市の発表によると12万3689人で、総世帯数は5万5328世帯である。中区面積は17.88平方キロメートルだ。
古くから人々の集落が形成、須恵器や土器の生産拠点だった地域
古代、このエリアは和泉国に属し、古代から集落があったとされる。4世紀後半からは中国や朝鮮の土器づくりに優れた技術を持っていた人々が渡来して、この地に集落を築く。奈良時代にその技術が伝承され、須恵器や土器の生産が盛んになったとされる。また、名僧・行基が大野寺を建立し、土塔を築造する。
平安時代から室町時代まで、灌漑用のため池が数多く作られ、区域のほとんどは農村地帯として発展する。
戦国時代には深井の合戦の舞台となったが、江戸時代に入ると再び穏やか農村の姿を取り戻した。
明治に入り、1889年に町村制が施行されると八田荘村、深井村、久世村などが発足し、1896年には泉北郡が成立。1942年に泉北郡の八田荘村、深井村、東百舌鳥村が堺市に編入となる。戦後には泉北郡の残りの村が合併して泉ヶ丘町が発足する。
1959年には泉北郡泉ヶ丘町を堺市に編入して現在の区域となり、冒頭で記したように2006年の政令指定都市への移行を受けて中区が誕生した。
1971年に開業した泉北高速鉄道により急成長した住宅都市
堺市中区域は市域の中央部からつながる市街地と1960年代から整備された泉北ニュータウンの間に位置している。区域の大部分は、ゆるやかな丘陵地形で、北西部に向かって石津川水系の陶器川、伊勢路川などが流れ、区域の北部には住宅を中心とした市街が形成され、南部には溜池が散在しており良好な田園風景が広がっている。
政令指定都市の中区という名称は、名古屋市、横浜市、広島市に次いで全国で4番目。全国初の中心市街地が含まれない中区として誕生した。堺市の中心市街地は堺区で、東西南北といった方位による支所・区名を堺市が推進したことによるもので、堺市中部であることを示している。
泉北ニュータウン地区のうち中区が管轄する区域は市街化調整区域の部分のみであるため、住居などは存在しない。
同区内の幹線道路は泉大津美原線、阪和自動車道などが整備され、1971年に開業した泉北高速鉄道深井駅周辺には、公共施設、商業施設、高層マンションなどが集まる。
鉄道開通とともに、百舌鳥陵南、深井、深阪、鶯谷において、土地区画整理事業が着工される。加えて、事業未実施の区域において、スプロール市街化が進行したのもこの時期である。これらの事業、開発などにより、中区域の市街地は急速に拡大し、人口の急増が1980年代後半ぐらいまで続く。
行基が築いた土塔をはじめ、須恵器の窯跡や、だんじり祭りやふとん太鼓の伝統行事など歴史的文化資産が残っている地域でもある。また、全国でも高いシェアを誇る和ざらし・ゆかた産業が発展し、緞通の縫製製造技術が現在に伝えられ、地域の名産として敷物の製造が行なわれている。
北東部には大阪府立大学が立地し、市民の生涯学習の場としても利用されている。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)