大阪府高槻市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
高度成長期に大阪・京都のベッドタウンとして急速に発展した中核市
大阪府高槻市は、大阪平野の北東、京都市と大阪市の中間に位置する。北は北摂山地に連なる山並みと丘陵、南は芥川・桧尾川などによって形成された堆積地である平野が広がり、 琵琶湖から大阪湾に流れる淀川が市域の南を流れる。
市街地を南北に分ける恰好でJR東海道本線と阪急電鉄京都線が並行して走り、北部丘陵地を名神高速道路が、中心地南部を東海道新幹線が東西に横断する。同市の総面積は105.29平方キロメートルである。
大阪府・高槻市のマンション
2018年に大阪府・高槻市で販売された新築マンションは128戸。同市で販売した新築マンションの相場価格は4235万円~5699万円だった。中古マンション相場価格は1540万円~5460万円である。
大阪府高槻市の人口は、2019年1月現在、35万2496人で、総世帯数は15万9956世帯だった。摂津富田駅、高槻駅周辺でマンション建設が相次いでいるため市街地の人口は増加している。が、市北部の山際に広がる団地や市南部の淀川近くに広がる旧来の市街地においては人口減少傾向にある。
旧くからの歴史を刻んだ大阪府9番目の市「たかつき」
同市域に人が居住しはじめたのは約2万年前の旧石器時代とされ、郡家今城遺跡で生活跡が発見されている。その後、弥生時代になってから豊かな田園地帯として発達。三島地域の政治的・経済的中心とし、歴史に大きな影響を与えたとされる。江戸時代になると、高槻城は徳川幕府の重要拠点として近世城郭が築かれ、市域は城下町として繁栄した。
近代化が急速に進んだ明治・大正を経て、1931年(昭和6年)に三島郡高槻町・芥川町・清水村などの5町村が合併して、新たに高槻町が誕生した。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)1月に大阪府下9番目の都市として高槻市が発足した。当時は、まだ田園地帯で、のどかな地域だったとされる。戦後、1948年(昭和23年)に阿武野村、1950年(昭和25年)に五領村を合併。1954年(昭和29年)に大阪府の市として唯一の市営バスの運行を開始した。
1960年代から70年代に人口が急増
昭和30年代に高度成長時代を迎え、高槻市は1955年(昭和30年)に三箇牧村を合併。さらに、1956年(昭和31年)に富田町、1958年(昭和33年)に京都府南桑田郡樫田村を合併して、ほぼ現在の市域となった。
また国鉄(現在のJR)の快速電車の高槻駅停車によって、利便性が向上し、 近代工場も進出して産業化が進展。大阪、京都の両政令指定都市へのアクセスも電車で15~20分ほどと利便性が高いため、住宅建設も活発化し、大阪・京都のベッドタウンとして急速に発展した。
1960年代から70年代に人口が急増し、1969年(昭和44年)に20万人、1973年(昭和48年)に30万人を突破した。
2003年(平成15年)4月1日に、中核市に移行した。同市は大阪府のなかで“サッカーの街”としてアピールしており、Jリーグのガンバ大阪のホームタウンでもある。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)