大阪府交野市の特徴
― ニッポンの自治体 ―
関西3都市、ならびに隣接する枚方市との経済的交流が盛んな田園住宅都市
大阪府交野(かたの)市は、大阪府の北東部に位置し、大阪市、京都市および奈良市までのそれぞれ約20kmの距離にある。古くから、関西3都市の文化を背景として、独特の風土を培ってきた。周囲は、東は生駒山系を境として奈良県と接し、西は寝屋川市、南は四条畷市、北は枚方市に接している。東西4.5km、南北6.5km、面積は25.56平方キロメートルの田園住宅都市だ。以前は条例で建築の高さが制限され、4階建て以上の建物は無かった。が、現在はその条例も撤廃されて、マンション建設が盛んに行なわれている、
隣接する枚方市中心部に近いことから、両市間の経済的な交流は盛んだ。
面積の約半分が山地で占められ、その中に金剛生駒紀泉国定公園、府民の森などがあり、四季の美しい風景を映し出す。
大阪府・交野市のマンション
2018年、大阪府・交野市で販売された新築マンションは248戸。同年、市内の中古マンション相場価格は1750万円~3080万円である。
2019年1月現在、交野市の人口は、7万7901人で、総世帯数は3万2549世帯である。近年、交通利便性の向上と、自然環境の良さから人口が増加傾向にある。
同市では第二京阪道路建設に伴う土地収用で、立ち退きする市民の代替土地を確保するために、交野市土地開発公社が近隣の土地を先行して購入した。が、その多くが売却されずに残っており、購入のために借り入れた資金と利息が莫大となり、市の財政状況は危機的状況に陥った。土地開発公社は1997年(平成9年)にピークとなる360億円の負債を抱えた。その後、順調に負債は減少しているが、2013年(平成25年)、負債総額は180億円余あり、市の一般会計予算が毎年約200億円程度であることを考えると、いかに巨大な負債であるかが分かる。
古代より農耕文化が育ち、米麦や河内木綿の生産が盛んに
交野市域で人が生活するようになったのは、およそ1万2000年前といわれ、縄文時代の神宮寺遺跡、弥生時代の南山遺跡、星田坊領遺跡などが残っている。古墳時代の前期に、肩野物部(かたのもののべ)氏の祖先伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、天野川流域に集落を築き農耕文化を広めたほか、古墳を造築した。一方、交野忌寸(かたのいみき)の祖漢人庄員は一族を率いて帰化し、倉治地域から寺地域の山麓の地で、機織りの技術をおこす。
平安時代、皇族、宮廷の人たちが交野で遊猟を楽しんだと「続日本紀」や「日本後紀」に記録されている。室町時代、応仁の乱が起こり、交野も戦乱に巻き込まれる。江戸時代に入ると、交野は幕府直轄の代官と譜代諸侯の支配を受け、以後300年、米麦や河内木綿の生産、手工業などで生活を営んでいた。
純朴な農村だったまちは、都市機能の充実を目指して市制施行
明治維新以後、河内県、堺県と管轄が変わり、1881年(明治14年)に大阪府管下となる。次いで1889年(明治22年)、市町村制が交付されて交野村(私部、倉治、郡津)、磐船村(森、寺、私市、傍示)、星田村ができた。
1939年(昭和14年)、交野村と磐船村が合併して交野町となり、戦後の1955年(昭和30年)の町村合併促進法の施行で交野町と星田村が合併し、人口1万人の素朴な農山村、新しい交野町が生まれた。そして、1970年(昭和45年10)には3万3701人(国勢調査)となり、都市機能の充実を図るため1971年(昭和46年11月)市制を施行した。
著:吉田 恒道(公開日:2020.01.06)